「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」は、AIには絶対作れない映画だ

映画館のシアター内をスクリーンに向かって撮られた写真

“ええ、私だって言いたくありません。ただ、機械的に濫造された映画は、AIによって生成された映画のようですらあります。そのような映画に素晴らしい監督や、美しい画を手がける特撮スタッフが関わっていないとは言っていませんよ。でも、その作品の意味は? 観客に向かって何を与えてくれるのか? 少しのあいだ楽しまれて、その後、頭からも身体からもすっかり忘れられてしまうだけでなく?”

GQに掲載された、マーティン・スコセッシのインタビュー記事からの抜粋です。これまで当コラムでは、「AIが人間を超えられない理由を「アート」から考える」「AIがポピュラー音楽を支配する?」など、何度か現代のAIの進化と人間によるクリエイティブとの境界について考えてきましたが、このスコセッシの発言、そして彼の最新作は、AIにできないこと、人間にしかできないこととは何か、を考える上で、大きなヒントとなる気がしました。

マーティン・スコセッシは、これまでに「タクシードライバー」、「レイジング・ブル」、「グッドフェローズ」などなど、映画史に残る名作を数多く生み出してきた、言わずと知れたアメリカの偉大な映画監督です。齢80を越えても現役で作品作りを続ける彼の発言が、近年ネット上で議論の的になっていました。

それは、現在アメリカの映画界でドル箱となっているアメリカン・コミックを原作にしたヒーロー映画について、「あれは映画ではない」と批判的な発言をしたのをきっかけに起こったものです。

槍玉に挙げられているアメリカのコミック会社・マーベルコミックによる作品を原作としたマーベル映画は、「マーベル・シネマティック・ユニバース」(略してMCU)と呼ばれ、2008年より、様々な作品が発表されてきました。MCU作品の特徴は、「アイアンマン」、「キャプテン・アメリカ」、「スパイダーマン」など、それぞれ個別のヒーロー作品でありながら、実際は一つの世界でつながっていて、作品ごとに張り巡らされた伏線が互いに干渉し合い、やがて「アベンジャーズ」という、ヒーローが一堂に会する作品で回収される、という壮大な世界観です。日本で言えば、例えば少年ジャンプに連載されている作品が実は全て同じ世界の話で、竈門炭治郎(「鬼滅の刃」の主人公)とデンジ(「チェンソーマン」の主人公)と虎杖悠仁(「呪術廻戦」の主人公)とロイド・フォージャー(「SPY×FAMILY」の主人公)が力を合わせて鬼舞辻無惨(「鬼滅の刃」の悪役)をやっつける、といった感じでしょうか。アメリカでは、このマーベルコミックも、スーパーマンやバットマンでお馴染みのDCコミックも、昔から作品を横断してヒーローたちが結集することが当たり前のように起こっていたのです(日本でも東映まんがまつりで「マジンガーZ対デビルマン」みたいなことはやっていたわけですが・笑)。

わたしもMCUはそれなりに楽しんではいて、特に2019年の「アベンジャーズ/エンドゲーム」は、それまでの10年以上の間に公開された20以上もの作品で積み上げたものが見事に昇華された作品で、大変感動しました。しかしこの2019年は、スコセッシが「アイリッシュマン」という作品を公開した年でもあったのです。

「公開」と言っても、実は本作はNetflix作品。つまり、「配信」だったのです。元々は劇場公開作品として製作していましたが、製作費が大きくなりすぎたことにより(なにせ、ロバート・デ・ニーロ、ジョー・ペシ、アル・パチーノが共演した上に、全員CGで若返る3時間半の映画ですから!)、出資者も配給会社も手を引いてしまい、暗礁に乗り上げかけていたところで救いの手を差し伸べたのがNetflixだったというわけです。

このことは、スコセッシのマーベル映画批判を、世間の一部から「ひがみ」として捉えさせてしまいました。スコセッシは「自分の映画は今やヒットしないから予算をつけてもらえない、それに引きかえ漫画映画はヒットしてずるい」と思ってるんだろう、と。

しかし、はじめに抜粋したインタビュー記事を読めば、スコセッシの批判はもっと違う意図を持っていたことがわかります。スコセッシは自身の仕事場でもあるハリウッドが、コミック原作の作品や過去のヒット作品の続編など、「ヒットしやすい」作品、「リスクの少ない」作品ばかり、スコセッシの言葉を借りれば「機械的に濫造された映画」ですが、それこそが「映画」だと思われてしまった時に、映画の文化的な価値は非常な危険にさらされるのではないか、ということを危惧しているのです。

わたしは現在上映中のスコセッシの最新作「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」を観て、スコセッシの言わんとしていること、そして、映画がもたらす、映画以外では得られない豊かな体験とは何かが、少しわかったような気がしました。

「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」は、1920年代初頭にオクラホマで実際に起こった石油利権をめぐる凄惨な連続殺人事件のルポルタージュを原作とした、「アイリッシュマン」同様3時間半に及ぶ大作です。前作はNETFLIXの製作でしたが、今作はAppleの製作です。

レオナルド・ディカプリオ演じる主人公がとにかくボンクラで、言われたことすらまともにできない上に、自分で考えて動くと必ず下手を打ってしまう、優柔不断で金のことばかり考えている情けない人物なんですが、そんな彼が物語の後半になるにつれ、追い詰められていく状況の中で、悩み、迷い、うろたえる姿を見ていると、当然の報いだと思いつつも、一方でなぜか同情の気持ちも浮かび、「がんばれ」と応援すらしたくなってしまうのです。この、色黒はっきりしないマダラ模様の感情は、本音と建前が入り乱れたセリフと、喜怒哀楽が幾層ものレイヤーになった表情と動きによる複雑さが生み出しているのです。ディカプリオ以外の役者も素晴らしいのですが、彼らの演技力は、自身がシネ・フィルであり、映画の何たるかを熟知した名匠・スコセッシでなければ引き出すことはできなかったはずです。

こんな映画を、AIが作り得るでしょうか。わたしは、不可能だと思いました。ラストシーンで主人公は、感情の洪水に溺れそうになりながら、あるセリフを絞り出すように口にします。その言葉の意味を、AIはきっと理解できないでしょう。セリフ選びも演技もカメラアングルもカット割りも、コンピューターが機械的にデータベースを組み合わせただけでは絶対に生まれない、人間が、人間のために考え、作ったからこそ生まれる、白眉のシーンです。

大満足の3時間半を堪能した後、スコセッシのインタビューを読み、「AIによって生成された映画」という言葉に触れたとき、改めて人間の創造力、スコセッシの映画監督としての偉大さに感服しました。AIがあらゆることを叶えてくれる時代だからこそ、人間の創造性は、より一層輝くのだと高らかに宣言しているようにも思いました。

そう思って上記インタビューの以下の部分を読み返すと、まさにそんなことを言っているかのようにも読めてしまうのでした。

“だから、こちらも根気よく反撃しなくてはなりません。それも草の根レベルでね。映画作家が自ら行動を起こさなければ。サフディ兄弟やクリストファー・ノーランもいるでしょう? 諦めないで打ち続けるのですよ。不満を言うのではなく、刷新していくのです。映画を救うためにね”