AIが人間を超えられない理由を「アート」から考える

絵画のキャンバスを筆致が見えるほどクローズアップした写真

先日美術館に行って、いくつもの絵画作品を鑑賞しながら、思ったことがあります。

「ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」で、20世紀初頭に活躍した、ピカソやブラックといった巨匠の様々な絵画を目にし、その筆致や色使いに感嘆のため息を漏らしつつも、「この巨匠の作品とAI生成によるアートとの違いはなんだろう」と考えました。

AIは、蓄積されたビッグデータによって、無尽蔵にアートを生成します。人間のように自発的に考えたり欲求することがない分、人間には思いつかないような奇抜な切り口で作品を作ることができます。AI生成の作品が人間が作ったものより劣る、ということは、既にありません。「外見上は」。

この「外見上は」の点が、人間とAIの分かれ目だと思うのですが、例えばピカソの場合、みなさん子供の頃「こんなの誰でも描ける」と思いませんでしたか? キュビズムを取り入れ、複雑な要素を排除した原始的な作風はまるで子供の絵のようにも見え、デッサンが狂った造形は、その作品だけを観た時に、技術的に「上手い」と言えるものではありません。

しかし、なぜピカソの作品はこのような形になったのか、当時の社会状況や前後の時代背景、人物の相関関係など、さまざまな情報に触れ、改めて作品に向かい合った時、それまで感じなかった新たな感情が湧き上がってくるのではないでしょうか。

つまるところ、人間とAIの違いは、「外見上は」特にない、ということが重要なのではないかと思ったのです。AIは、ピカソよりも画期的な作品を生み出すことができるでしょう。しかしわたしたちは、AIが生み出した作品に対して、ピカソと同等の感動を覚えることができるのでしょうか。

わたしはよく、特に絵画を鑑賞する時、キャンバス上の筆致を見て、その当時のピカソがパレットに絵の具を絞り出し、絵筆を押し付けて色を混ぜ合わせ、筆先をキャンバスの上に力強く走らせる姿を想像する、という楽しみ方をしています。それは、実在の作家がいるということを「信じられる」からこそ可能なことです。もしAIがピカソの技法を模倣して彼の新作を作ったとしても、そこには外見以外に喚起されるものが何もないので、装飾としての機能以上の価値が全くありません。ですから、「サルバトール・ムンディ」がダ・ヴィンチの作品か否かで大騒動になるのも、単なる金持ちの茶番とは言い切れないところがあるのです。

ここ数年、ビジネス界隈で「ナラティブ」という言葉や、「モノ」より「コト」という言葉を目にすることが増えています。これは、アートだけでなく、商品やサービスに触れる場合でも、わたしたちはその「意図」や「背景」を手がかりとした「共感」を欲している、ということだと思います。亡くなった妻の声をAIで再現したAIアートについても、同じことが言えるでしょう。

ここ最近のAIの進化は止まることを知らず、「AIに仕事が奪われる」という危機感も当然のことではありますが、わたしたちが「共感」を必要とする限り、AIの役割はまだまだ限定的なはずです。わたしたちが「共感」できるAIが登場するのは、まだしばらく先のことでしょうから……(?)。

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