2けた暗算本のヒットから考える「人間がやりたいこと」について

右にある電卓で計算し、左にある紙に書き込んでいる人物のデスクの上の写真

生成AIの登場で、仕事が奪われるかも知れない。生成AIが得意なこと、生成AIが代替できることは仕事にならない。わたしたちは、人間にしかできないことを追求しなければいけない……ChatGPTの流行以来、こんな話題はつきません。

しかし、そんな話題があることと、みんなが本当にそちらに向かっているかどうかは別の話。最近、「小学生がたった1日で19×19までかんぺきに暗算できる本」が50万部の大ヒットとなっているそうです。わたしの頭に、「?」が浮かびました。

2けたの掛け算なんて、生成AIどころか電卓があればすぐにできます(ヨーロッパでは試験に電卓の持ち込みを許可する国があるという話を聞いたことがあります)。それなのに今、なぜ暗算なのか?

この本、体裁としては小学生向けですが、実は60代以上の読者に売れているんだそうです。出版社も学習教材を作っているところではなく、ダイヤモンド社。ビジネス系の出版社です。

すぐに思い出したのが、「数独」です。ずいぶん昔にブームになり、今も関連書籍はたくさん売られていますが、買っている人は上の方の年齢の方に集中している印象です。いわゆる「脳トレ」です。では、2けた掛け算の本も、脳トレ目的で売れているのでしょう。60を過ぎて、いよいよ19までの掛け算が空でできないと困る、なんてことはないでしょうから。

IT技術の進歩とともに、人間の脳はそれまでの面倒を機械に任せることができるようになりました。スケジュールはリマインダーが教えてくれるし、計算はExcelがやってくれます。それに伴って、「もの忘れ」は、徐々に若年化しているような気がします。でも、若年化しようが技術がサポートしてくれれば、困ることはありません。しかし、困ることがなければわたしたちはそれでいいのでしょうか。

果たして、「生成AIができることは生成AIに」で、人間は本当に大丈夫なんでしょうか。暗算のブームには、そういったことへの不安や抵抗感が滲み出ているように思いました。

最近はそろばん塾が見直されているそうです。「計算」ということだけを切り出せば「結果」が全てですが、「人間が生きるということ」に関して言えば、それはほぼ「経緯」が全てだと言えるでしょう。結果とは死後のことですから、社会にとっては価値があっても、本人にとってはなんの意味もありません。重要なのは、それまでどう生きたか、です。今のブームや再評価における2けたの掛け算もそろばんも、それによって導き出される「結果」には、実は意味がないのかも知れません。

「人間がやらなければならないこと」「人間がやらないほうがよいこと」以外に、「人間がやりたいこと」があります。生成AIの方が上手くできるし、正確だとしても、もしそれを人間がやりたいのだとしたら、人間がやるべきなのでしょう。アートの分野に生成AIが進出していますが、それによって人間のアーティストが淘汰されることはないでしょう。アーティストは、やりたいことをやらないと生きていけない人たちなんですから。