「広告はラブレターである」?「ラブレター」ってわかる?

封筒を開いて手紙を取り出している女性の手元

「広告はラブレターである」。広告の仕事に関わっていると、誰もが一度は目に/耳にすることのある言葉です。消費やクライアントにとって「自分が必要な存在である」と思ってもらうために、どこまで心血を注いで表現を考え尽くせるのか……その真剣度合いを測るための優れた比喩であったと思います。

しかし、というか、ところで、というか、ふと思ったんですが、今「ラブレター」って、書く人はいるんでしょうか。
わたし自身は書いたことがないのですが、わたしの若い頃(30ン年前)は漫画やドラマの世界では少なくとも「ラブレター」という文化はありましたし、まわりで書いていた人もまだいました。
「広告はラブレター」という言葉自体も聞かなくなって久しいのは、やはりラブレター自体が廃れて、例え話が古くなって伝わらなくなったからなのかもしれません(そう思えばスマホのアイコンに残っている「受話器の絵」のなんというしぶとさ・笑)。

では今、「ラブレター」に代わるものって、何なんでしょうか。
Eメール?いやでも今の若い人はメールをあまりしないそうで、最近知り合った若いベンチャー企業の方とはLINEでつながるケースが多く、メールアドレスも知らないまま仕事が進んでいます。
いやもしかすると、わたしたちが「ラブレター」というものに集約させていた「広告を象徴する強い何か」というものがなくなってしまった、ということかもしれませんね。

「広告(ラブレター)」ひとつで相手を口説き落とすなんて無理だから、「いつも近くにいて(ネット広告)」、「相互にコミュニケーションを取り(SNS)」、小さな接点を積み重ねることで、時間をかけながら少しずつ関係を深めていくことで結果に結びつけることが、総して「昔"広告"と呼ばれていたもの」と言えるのでしょう。

とはいえ、「広告はラブレターである」には、当時の広告クリエイターの矜持のようなものが込められており、そこには今も共通する教訓があると思います。
「ラブレター」は、独りよがりではいけない。相手が求めていることをどれだけ理解できているか。相手の気持ちにどれだけ寄り添えているかが大切。そう考えれば、恋の成就も広告の成功も、時代も形も変われど、実は同じことなのかもしれません……ラブレターも出したことがないのによくそんなことが言えたものだと自分でも思いますが(恥)。

さて、「ラブレター」に代わる広告の例えって、なんでしょうか?