「良いデザイン」か「悪いデザイン」か

さまざまな色と形の紙を並べて抽象的なパターンを作っている様子を俯瞰で捉えた写真

わたしたちは、グラフィックを中心に、さまざまなデザインを提供している会社です。ですから、デザインのクオリティにはこだわり、細心の注意を払っています。しかし、デザインの良し悪しを判断するのは、簡単なことではありません。「良い」「悪い」ということ自体が主観的になりやすく、そもそも「デザイン」そのものの定義も曖昧な部分があります。つまり、客観的で明確な評価ができない、ということです。

とは言え、わたしたちも仕事としてデザインをお客さまに提供する以上、自分たちの中に良し悪しの基準が必要です。そうでなければ、「良いデザインを提供する」ことができなくなってしまうからです。

そんなわたしたちにとっての「良いデザイン」の基準は、大きく分けて二つあります。

一つは、「十分に機能する」デザインであることです。

ユーザーが知りたい情報が明確にわかり、ちゃんと伝わるもの。例えばパンフレットであれば、知りたいことがわかりやすく載っているもの、知らなかったことがパンフレットに目を通すことで自然と理解できるものは「良いデザイン」がなされていると言えるでしょう。街中のサイン、例えば注意を喚起する看板であれば、見落とすことがなく、一目で意味が理解でき、見た人が自然と注意を向けるようにすることができれば「良いデザイン」です。

もう一つは、「景観を守る」デザインであることです。

デザインという言葉から多くの人が連想するのは、言わばこの「見た目」のことではないでしょうか。しかし、それは単に「かっこいい」「きれい」ということだけではありません。

わたしたちが行うデザインは、誰かに見てもらうために作ります。雑誌の中の広告、お店に並ぶチラシやパンフレット、お店の装飾、道路沿いの看板や、屋外ディスプレイに流れる映像、ラジオから聞こえてくるCM、ウェブサイトを開いたときに表示される広告……などなど。全ては、誰かがデザインすることで形になり、社会を彩る「景観」の一部となります。

その昔、田中一光(西武や無印良品のアートディレクション他有名な仕事多数)や亀倉雄策(1964年の東京オリンピックのロゴやポスター、NTTのマーク他有名な仕事多数)といった、日本を代表するデザイナーが、海外のデザイナーから羨望の眼差しで見られていた時代がありました。彼らに憧れていたデザイナーたちが来日したとき、街中を覆う数々の猥雑な広告たちを目にして、大変がっかりしたんだとか。来日前には、田中・亀倉を産んだ日本の街はどれほど美しいのだろうと期待に胸を膨らませていたのだそうです。

人の目を引くためには、ある程度目立たせるための演出は必要です。でも、それが度を過ぎてしまうと、「景観」を悪くしてしまいます。

広告業界では、相手を不快にさせてでも、目を止めさせたり、記憶に残すことが重要で、その広告が掲載された場所がどのような場所になるのかを考えない、利己的な「成果第一主義」の人たちがいます。ネット広告のように、広告主も広告を掲載するメディア側も責任の所在が曖昧になってしまう施策では、ますますその傾向が強まっているように感じます。

SNSのユーザーや動画配信者が、不道徳な行為を世界に発信して問題になる、という事件は後を断ちませんが、社会を見る視野が狭まり、公共の場所をみんなが共有しているという意識が薄れてしまっている今のネットの状況が、「目立った者勝ち」の傾向を過度に強めているのではないでしょうか。

わたしたちデザイナーは、自分の作るデザインが、みんなの住む社会の一部となっていること、そこには責任が伴うのだ、ということを、改めて考えなければいけないと思います。

わたしたちプランニング・ロケッツが目指す「良いデザイン」とは、十分に機能することを前提として、景観を損なわず、道徳や倫理に則った、社会と共存できる美しさを持ったものです。