禁煙が一般化した今の社会が無くしてしまったもの

タバコを吸う女性のイメージ

先日、お客さまと飲みに行く機会がありました。永らくコロナが続いていたこともあって、数年ぶりのお酒の席になりました。

最初は、その方と以前に飲んだお店に行くつもりでしたが、数年が過ぎてそのお店は「全席禁煙」になっていたのです。わたしは生まれてこの方、喫煙の経験が全くないのですが、お客さまは大の愛煙家ということで改めてタバコの吸えるお店を探してみると、どこのお店もことごとく「全席禁煙」。この日は喫煙可能な小さなお店を見つけることができたので、無事、楽しい一夜を過ごすことができました。

東京オリンピックの当初開催予定だった2020年以降、喫煙可能な飲食店がほとんどなくなってしまいました。一方で、コロナ禍で一時期閉鎖されていた喫煙スペースには多くの喫煙者が集まり、最近は歩行しながらの路上喫煙が増えている気がしますが、日に日に禁止区域が増えています

90年代には全員がタバコを吸っていたわたしたちの会社も、今や喫煙者は絶滅危惧種と言えるほどの少数派です。当時、外食の際は禁煙席のあるお店を探すのに苦労し、新幹線は禁煙車両、ホテルは禁煙室を必死に選んでいた身としては、禁煙が標準となった今の社会は、とても暮らしやすく感じます。しかし反面、タバコという趣向品を楽しむ権利が不当に侵害されているのではないか、と思う時があります。

「暇と退屈の倫理学」という、人にとって「暇」とは何か、「退屈」とは何が違うのかについて深く掘り下げた本の著者である哲学者の國分功一郎さんは、2021年のインタビューで、こう語っています。

タバコを吸ったり、お酒を飲んだりすると、ボケーっとして、自分の中が少し空虚になりますよね。人間の人間らしい生き方にはそういう状態が必要ではないでしょうか"

続けて、このようにもおっしゃっています。

ボケーっとすること自体に罪悪感を覚えたり、退屈さを過大に恐怖するようになったりすると、人間が孤独でいられなくなる。孤独な時間は、人間がものを考えたりするために、とっても大事です"

完全に良いこととして奨励されている「禁煙」という制度ですが、もしそれが「余裕を無くした社会」の反映だとすると、少し怖い気もします。どこでもタバコが吸えた社会に逆戻りしてほしいとは思わないのですが、今の状況がタバコを吸う人・吸わない人双方にとって良いのか、改めてよく考える必要があるのかもしれません。

と、そんな最中、喫煙者のためのカフェが好調なんだそうです。愛煙家にとっては心ゆくまでタバコを楽しむことができ、受動喫煙の気になる人たちにとっても、これで路上喫煙が減るのなら願ったり叶ったり。このように、「NG」とされたものを排除するのではなく、共存できる方法を見つけることこそが、ダイバーシティやインクルーシブと言われる今の時代に必要とされる「アイデア」なのでは、と思った次第です。